優れた文学作品とシンクロニシティーの関係

 

 

先日読んだ女優・鶴田真由さんの本「神社めぐりをしていたらエルサレムに立っていた」(感想はコチラ)。この本を読んで、ふと思い出したのは、スピリチュアルに精通している方には有名な古典「聖なる予言」という本に寄せられた、心理学者の河合隼雄氏の解説でした。

 

”ところで、本書はその第一の知恵に「偶然の一致を大切にする」ことをかかげているので、この話の筋を見ればわかるとおり、偶然の一致をつぎつぎと使いまくることができる。というわけで、本書は著者の考えどおりの本ができてしまった。そして、そのために、本書は文学作品としては、あまり程度の高くないものになっている。“

河合隼雄 解説 近代科学の枠組みを離れて「聖なる予言」より

 

鶴田さんの本にも、不思議な「偶然の一致」が次から次へと起り、「一体自分が何をしているのか」さえ捉えられないまま、流れるように「面白いからやってみよう」と、出来事をナチュラルに引き寄せ続けている様子が綴られていました。
文学作品でないにしても、起承転結を欠いたエッセイの構成内容に、最初私は読みながら「ええ〜???」と、正直に言うとビックリしてしまいました。
鶴田さんの旅には何か「目的」があるわけでもなければ、探している「答え」や、研究している「テーマ」があるわけでも、深く彫られたリサーチ内容が綴られているわけでもなく、立証したい「案」があるわけでもありません。
旅の最後には、何かが「解決」されるわけでも、何らかの「結論」が結ばれるわけでもありません。
本として、使い古されてきた暗黙のルールというか、既存のフレームのようなものが、そこには著しく不足している文章と内容のように、私には感じられたのでした。
 

でも、読後にふと感じたことがありました。
それは、鶴田さんが綴られていたことは、実際の人生で起きていることと、とてもよく似ているなぁということ。
スピリチュアルと呼ばれるものに慣れ親しんでゆくと、「シンクロニシティー(偶然の一致)」が生活の中には、実は沢山存在していることに気付かされます。
最初は、あまりにもベタなシンクロがあると、まるで「B級ドラマみたい」「漫画みたい」「おとぎ話みたい」と、非現実的で不思議なことが起きたように感じられたり、「うわ!まさか、そんなことが!」とシンクロ内容に度々ビックリしていたのですが、次第にその状態が習慣となってくると、まるで「B級ドラマみたい」「漫画みたい」「おとぎ話みたい」な展開の方が普通に感じられてくるから不思議です…。
 

 

”近代科学が偶然を嫌ったので、その影響を受けて、近代文学も偶然を嫌うようになった。うまい偶然でハッピーエンドになるなどは、十八世紀のオペラでは許されたが、近代文学では、偶然にうまくゆくようなお話は敬遠されることになった。(もっとも、実際には思いがけない偶然の一致ということが、人生でどれだけ大切かは、私のように生身の人間にかかわる仕事をしていると、よく体験するのだが ) そこで、文学者は偶然を排除しつつ、何もかもおきまりのではない作品をかく、という難しい仕事に直面しなくてはならなくなった。しかし、このような難しいことに挑戦してこそ、よい文学作品が生まれてくる、とも言える。“

河合隼雄 解説 近代科学の枠組みを離れて「聖なる予言」より

 

あらゆる創作物が、私たちの集合意識によって支えられているといわれているそうです。
これまで「普通」だと思っていた「文学のフォーマット」や、それらに影響されてきた私たちの思考パターンや人生観。
あまりにも多く作られてきた「人生はうまくいかない」「人生は複雑だ」「偶然なんてない」という思想を元につくられてきた、悲劇的で悲観的で暴力的な世界観と、複雑に練られたシナリオや、巧みなストーリー展開たち。
私たちの信念体系の変化とともに、もしかしたら遠くない未来には、今とは全く異なった「名作」と呼ばれる「文学のフォーマット」が生み出されているのかもしれないですね。

 

 

 

 

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